医学部は崩壊する!?

――研修必修化がもたらす研究と教育の荒廃――

臨床研修の必修化は、最近その功罪がしきりと論じられているが、その臨床医学に与える影響の最終的な評価にはもうしばらくの時間が必要であろう。
しかし、現在においてひとつだけはっきりしていることがある。それは研修必修化が基礎医学の分野に与えるダメージが、予想外に大きかったということだ。今、臨床研修の必修化によって、基礎医学に進む人材が激減している。こうした傾向がつづけば、日本発の臨床研究の実力は低下し、いずれは、医学界全体に大きなマイナス要因として影響を及ぼすことは必至である。
そこで今回の特集では、研修必修化によって基礎医学が被るダメージ、それが医療界全体にどう影響してくるのかを論じていただいた、九州大学生体防御医学研究所分子発現制御学分野教授/中山敬一氏の寄稿をお届けしたい。

はじめに

「今、医学部が最大の危機に瀕している」と言ったら、「何を大袈裟な」と、あなたは笑うだろうか?しかし、実際に日本の医学部では将来50年、100年にわたって禍根を残すような愚行がまさに今行われているのである。それは餓えた蛸がひもじさのあまり自分の足を食べてしまうような、将来のことをまったく考えない行為である。
数年前に始まった「研修必修化」は、診療面においてある程度の効用は認められるものの、基礎医学研究を直撃し、いずれは臨床医学研究も滅ぼすであろう。研究だけではない。このままでは、医学教育も次世代には崩壊すること必至である。そして、その先に待っているものは、教育も研究も低レベルの、大学という名の医療専門学校の出現に違いない。
小泉首相は「米百俵の精神」を掲げて国民の圧倒的な支持を得た。これはご存知のように、皆が困窮しているときに、あえて百俵の米を消費せずに将来の教育の糧に使おうという高邁な精神であり、最大の尊敬に値する姿勢であると思う。しかしながら、現在行われている医学部改革は、この精神とはまったくの反対の方向へ向かっている。私よりもよほど見識にすぐれた多くの医学者が同じ危機感を有しているにもかかわらず、誰もこの流れを止められない。そして、それ以上に深刻なのは、多くの医師や医学生が現在の危機に関する認識がないことである。
私はこのような問題を専門に研究する者ではないが、あまりの惨状に本業の合い間に筆を執ることにした。本稿では、現在の医学部が抱える病巣を摘出し、病理を調べ、治療方針を示したい。

1章

生命科学へと変貌を遂げた医学

かつての医学は
その大部分を経験に依存していた

我が国において、医学はもともと実学であった。一方で生命の構成原理を探求する生命科学は虚学であり、理学部に属していた。そして一時代前までは医学と生命科学はあまりにもかけ離れており、現実的に同一レベルで語れるような状況にはなかった。実際、20年前に私が受けた医学教育も、一部を除いて実につまらないものであった。
その理由は簡単で、ロジックがなかったからである。当然のことながら人間もひとつの生命体であり、その病気という異常状態には必ず原因があり、そしてそれを治す方法も理論のうえでは考えられるはずだ。しかし、私たちが受けた教育というのは、ほとんどの病気が原因不明、治療法はステロイド(作用機序は不明)という類いのものであり、ほとんどが経験にのみ基づいていた。現実的に理系学生の最高頭脳を集めている医学部で、なんのロジックもない暗記教育がなされていることは非常に悲しむべきことではあったが、当時の科学のレベルを考えれば仕方のないことではあった。
けれども明らかに時代は一変した。因果関係を明らかにすることによって成立する理論体系、つまり科学のひとつとしての医学が始まったのである。人間の体をひとつの生命体として捉え、それを分子レベル、細胞レベル、個体レベル、集団レベルで解析しようとする統合的な医学観が芽生え始めたのが20世紀終わりの大きな進歩だったことに、今にして気がつく。とにかく、現在では医学は立派なヒューマンライフサイエンスである。それは単なる学問上の話ではなく、すでに産業として、ヒトのメカニズムを理解し、それを応用することによって健やかなトータルライフを指向する時代が始まっている。

今までにない勢いを持って
進み出した医学研究

実際に私たちのまわりには、次第に基礎研究にもとづく成果が増え始めている。
EGF(上皮成長因子)レセプターはEGFに反応してタンパク質のチロシンをリン酸化するが、その研究から産まれたのが、EGFレセプターの阻害薬であるイレッサ。イレッサは今までほとんど打つ手のなかった、手術適応がない肺がん患者に対して明らかな効果を示す新規の抗がん剤であるが、一部の患者には致死的な副作用を有することが問題となっていた。しかし近年では、患者のEGFレセプター遺伝子の塩基配列の違いが薬剤感受性に関係あることが次第に明らかとなり、投与前に患者に対する有効性と副作用をある程度推定できるようになりつつある。これらは分子生物学や細胞生物学、さらにはゲノム医学による成果の結実と言うべきであろう。
同様の分子標的抗がん剤で有名なのはグリベックで、CML(慢性骨髄性白血病)に劇的な有効性があり、またプロテアソーム阻害薬のベルケイドはミエローマに著効を示す。さらに、ハーセプチンのような抗体医薬も登場し始めている。
そのほかにも、基礎研究の応用は意外に身近なところで現れている。よく思い出してほしい。ヒト型インスリンの大量生産が、いかに多くの糖尿病患者を救ったか。エリスロポエチン注射が、慢性貧血に悩む透析患者にとってどれだけ効果があったか。今まで抗がん剤による骨髄抑制で感染症を起こして亡くなっていた患者が、G-CSFのおかげでどのくらい助かったか。
医学が因果関係を探索し、解決しようとする姿勢を持つ真の学問になったのはつい最近のことである。とは言え、その後の発展のスピードには目を見張るものがある。21世紀になってヒトゲノム計画がほぼ完了し、私たちはその難解な設計図を一応は手にした。予想以上の難解さに手こずってはいるものの、それでもゲノム情報の取得は従来の科学の方法論を完全に逆にしたと言っても過言ではない。
今後は今までにない勢いと方法論を持って医学研究は進み、その果実は近い将来に臨床現場へ還元されることを誰もが夢見ていた。これからの生命科学、そしてその一分野であるはずの医学には、燦々たる未来が拓けてくるはずであったのだ。

2章

基礎医学を直撃した研修必修化

医学研究の将来に
立ちはだかった研修必修化

明るい未来が約束されたかに見えた医学の世界。しかし誰もが予想しなかった方向から災いはやってきた。研修医による医療事故の頻発やその背景にある研修医の過酷な労働環境に世論の批判が集中し、また大学の医局制度によるピラミッド型の支配構造を改革せねばならないという声が上がり始め臨床研修が必修化されたのだ。もちろん、そのような古い体質を改善する試み自体は悪いことではない。
研修の必修化によって、医学部を卒業して医師免許を取ってからも、さらに2年間(または3年間)の研修を受けなければ保険医登録ができない、つまり実質的に医師としての活動ができないという制度が始まった。これは言葉を変えれば、医学教育の実質的な8年化と捉えることができると思う。

現在のための医学と
将来のための医学

さて、ここで従来の医学研究の在り方について振り返ってみたい。医学は2つの側面を有する特異な学問である。つまり単なる興味のための学問ではなく、その学問から得られた最新の情報と技術を患者に還元していくことが求められ、研究と診療が車の両輪のように同時に進行しなければならない。別の見方をすれば、医学は現在のための医学と将来のための医学に分けて考えることもできるのだ。
現在の医学の基盤を支えているものは過去数十年にわたる基礎研究から得られた結果であるし、現在の研究は10年後、20年後の医学を支えるであろう。持続的な医学の発展を願うためには、常にそのエネルギーの一部を将来の投資にまわさなくてはならない。そうしなければ存続も発展もないことは、医学部に限らず、企業や国などどんな組織にも共通した自明の理であろう。特に研究開発という分野は既成の学問を超える創造の世界であるから、もっとも優秀な人材を配するべきであることは言うまでもない。

基礎医学講座を支えてきた
臨床医の大学院生

しかし実を言えば、以前から医学部は将来に対する投資にはあまり熱心ではなかった。6年にわたる医学部教育を終えて、そのまま研究をめざす者はほんの一握りというか、稀と表現したほうが正しい。1クラス100名の卒業生の中で、卒後すぐに研究をめざす者は多くて1?2名で、0名という医学部も少なくないのではないか。では、大学の講座の約半数は基礎医学なのに、これほど少ない人材でどのように研究を賄ってきたかというと、それは臨床医学からの供給に頼っていた面が大きい(図1)。
以前はかなりの数の臨床医が大学院生として基礎医学講座で研究を行った。その結果として基礎医学講座は優秀な人材を得て研究を遂行できたし、臨床医学講座は将来の臨床研究を行うための人材を養成できた。
彼らは基礎医学分野で研究のイロハを学び、世界をめざす姿勢を見て臨床へ帰り、臨床研究の担い手となった。また臨床からやって来た優秀な医者の中には、日常のルーチンワークに追われる診療業務よりも学問として探究心をそそられる医学研究に転向する者も少なからずいて、卒後すぐに基礎研究をめざすストレート組と臨床からの転向組が、以前は医学部の基礎研究と教育を支えていたのである。

研修医の大学離れの
しわ寄せが、基礎医学講座に

そうしたバランスを崩したのが臨床研修の必修化なのだ。研修必修化は当初は基礎医学講座に関係のない、単なる臨床研修制度の変更程度に受け止められ、基礎医学講座では誰もそれを真剣に危惧する者はいなかった。しかし蓋を開けてみれば、多くの研修医は症例の豊富な大学外の市中病院での研修を希望し、大学からは若手が姿を消して、臨床講座ですら深刻な労働力不足に陥り、そのツケは末端である基礎講座に押し寄せ、基礎講座には大学院生は来なくなった(図1)。貧すれば窮し、窮すれば鈍す。医学部全体として研究や教育が大切なのはわかっていても、目の前の人材不足はいかんともし難い状況になったのである。
たとえば、現在までの9年間に私の研究室に入学した大学院生は30名いるが、そのうち医学部出身者は15名で、卒業後すぐに研究を始めるストレート組の学生が6名、臨床から来た大学院生は9名であった。残りの15名はその他の学部からで、その内訳は理学部6名、薬学部5名、農学部4名であった。
毎年数名の新入生のうち、おおよそ半数は医学部出身者だったのが、研修必修化が始まってから2年間はひとりも医学部から大学院生が来ない状況がつづいている。この流れは今後もつづくものと予想され、私の所属する研究所では医学部以外からの人材募集を積極的に行うことにした。このような傾向は、全国どこの大学の基礎医学講座でも似たようなものだと思われる。

3章

研究の凋落そして教育の崩壊がやってくる

将来への投資を怠れば
研究能力の低落は必定

現在のような状態がつづけばどうなるだろうか。事実上日本の理系頭脳のトップを占めている医学部から、もっとも創造性の要求される基礎研究にまったく人材が行かなくなるという可能性が出てくる。畢竟、基礎部門における人材の数と質の低下は避けられず、当然研究能力も低落するであろう。
すなわち、未来の医療の基盤となる新しい知見を生み出すことを自ら放棄する道を選んでいるのにほかならない。将来への投資を怠った組織がたどる運命がどのようなものであるかは歴史が証明しているとおりである。

基礎医学部門の凋落は
実は医学部崩壊の序章

基礎医学部門の凋落は、実は医学部崩壊の序章にすぎない。臨床部門においてもその影響はかなり早期に現れるだろう。基礎部門で優秀な医師を学ばせることができないばかりか、大学院生という名のもとに診療行為の下働きをさせてきたツケがある。早晩、臨床研究能力の低下はやってくるはずだ。実験のイロハをまったく知らない多忙な医師にどのような研究ができると言うのか。
今まで彼らが基礎研究で学んでいたものは、決して実験手法とかテクニックといったものだけではない。研究の意義、研究に対する姿勢、立案と遂行に対する種々の知恵、世界最先端への距離感、等々、科学としての医学を肌で実感することがその最大の恩恵だったのだ。そのような訓練を受けていない人間が臨床研究の担い手になるのである。あっというまに日本の臨床研究能力は低下するだろう。
大学における研究能力の低下が国民の健康維持にとって直接的な損失であることは言うまでもないが、間接的にも医療バイオ関係をすべて海外に独占されることは経済的に巨大な損失であることは明らかである。
そもそも大学病院の存在意義は、なんだったのか。患者は何を求め、そこで働く医師は何を指向していたのか。現在、それがまったく曖昧になってしまったために若い医師たちが大学を離れていくのではないか。
大学病院が市中病院と異なる点は、大学が最先端の医学を研究し、その成果をいのいちばんに患者への診療に応用するというその一点に尽きるだろう。その大学病院が研究行為を放棄してしまえば、なんら市中病院と変わるところはないばかりか、今まで長らく白い巨塔状態であった大学に勝ち目はないことは火を見るより明らかである。医師にとっても、そのような大学病院にはなんの魅力もないに違いない。

予想されるもっと深刻な事態
それは、医学教育の崩壊

そして、実は研究における打撃とはくらべ物にならないほど深刻な事態が予想される。それは医学教育の崩壊である。研究の低迷は、適切な改革をすれば5年、10年で取り戻すことが可能である。しかし教育の崩壊は50年、あるいは100年の損失になりかねない。このまま現在の状況がつづけば、基礎医学研究の世界から医学部出身者は払底する。当然、非医学部出身者が医学部の基礎講座の教官ポストを埋めることになるだろう。つまり医学教育を受けたことのない人たちによって医学教育が行われるようになる。
誤解のないように付け加えるのだが、私は医学部の教官をすべて医学部出身者にせよと言っているわけではない。分野によっては非医学系の研究者のほうが優秀な場合も多いし、それらの研究者が医学部に入ってくることを排除すべきではない。実際、私の所属する研究所も医学研究所と銘打ってあるが、基礎部門の半数は医学部出身ではない。しかし医学教育を受けたことのない教官だけが明日の医学を担う若者の教育を行うことに対しては、以下の理由によって反対である。
医学部で受ける教育というのは並大抵のものではない。まず解剖学(=正常構造)や生理学(=正常機能)を習い、その異常としての病理学(=異常構造)や臨床医学(=異常機能)を習う。つまり人間というひとつの生物に関して、構造・機能についての正常・異常をありとあらゆる角度から6年間にわたって徹底的に叩き込まれる。その結果、人間という生物に対して「個体レベルでの理解」が感覚的に芽生えてくる。これは他学部の人には絶対にない感覚で、それを独学で学ぶことはまず不可能であるし、私は医学部を出ていないのにこの感覚を身につけている人に出会ったことがない。
それは医学部6年間で得る知識の量が膨大なだけでなく、実際に解剖を行ったり、患者を診察したりしなければわかならないことばかりだからである。医学教育は6年かかり、他学部にくらべれば2年のまわり道ではあるが、この「人間個体レベルの理解」は、ライフサイエンスを行っていくうえで絶大な力を発揮する。それは当然医学教育に対しても同様である。私自身は以前医学部に行ったことを非常に後悔した時期もあったが、今ではそんなことはまったく思わない。
いくら分子や細胞や動物のエキスパートであろうと、人間個体への最終的な理解に乏しい教官が教える医学は、自ずとその説得力に限界があろう。今ですら医学生は基礎医学の授業は単なる試験のために受けていて、決して自分の医師としての素養に役立つとは考えていない風潮が強いが、人間個体と切り離された教育が進めば、ますます基礎医学への興味は失われ、結局のところ医学部は、生命の構成原理すら理解していない医療技術者の養成機関となり果てることは目に見えている。
くどいようだが、もう一度誤解のないように付け加えておくと、私は基礎医学部門の教官をすべて医学部出身者で独占せよ、などという偏狭な意見を述べているのではない。中途半端な科学しかできない医学部出身者よりは、世界的なレベルの研究をしている非医学部出身者のほうがよほど迫力のある講義ができるだろうし、学生に訴える力も強いだろう。
私が声を大にして言いたいのは、そのような世界レベルの研究を行える人材を医学部から豊富に供給できる体制を整えよ、ということである。もともとそれだけの頭脳持った人材を医学部は抱え込んでいるのである。自分の学部の基礎教育を自分の学部出身者で賄えないことほど情けないことはない。

4章

改革案:大学の役割の明確化と医師の二分化

単に昔に戻すのではなく
現方式のさらなる改良を

では、研究の凋落、教育の崩壊を招かないためにはどうすれば良いのだろうか。研修必修化を止め、医師の技能向上と医局人事からの脱却をめざしたはずの現方式を旧に復すれば良いのか。私はそうは思わない。
現方式は長期的な視点に立てば前記のごとく、著しく瑕疵のある方策ではあるが、少なくとも目先の問題に対してはある程度有効であろうから、単に昔に戻すのではなく、現方式をさらに改良すれば良いのではないだろうか。具体的な案としてはまだはなはだ荒削りだが、私の案を紹介したい(図2)。

大学病院を完全に
リサーチホスピタル化すべし

 まずこの問題は大学病院の存立基盤に端緒を発していることを考えれば、大学病院自体をいかに変えていくか、市中病院といかに差別化を図っていくか、が第一の改革となろう。過去において大学病院はブランドであった。単なる風邪の患者すら大挙して押しかけ、3時間待ちの3分診療と言われた時代があった。しかし、もはやそのような時代ではない。患者にも若手医師にも見放され始めている。
 先にも述べたように、大学病院の最大にして唯一のアドバンテージはその研究開発能力にある。それを踏まえれば、大学病院は完全なリサーチホスピタル化をしなくては社会的な使命を果たせないであろう。基礎研究の成果を踏まえたtranslational medicineを徹底的に行わなくては、もはや大学病院の価値はない。最新の治療法、最先端の治療機器、最高のスタッフがそろっている病院でなくてはならず、従来のような人事権だけで他の病院を支配下に置くようなことでは誰の支持も得られない。患者にとっても医師にとっても真のプレステージでなくては意味がないのだ。
 市中病院で行えることは市中病院に任せておけば良い。もはや大学病院には通常の外来は必要ないだろう。大学病院には、完全紹介制で実験的医療のインフォームド・コンセントが得られた患者のみ受け入れ、綿密なプロトコールのもとに、きちんとした計画と科学的評価を行う体制が何より必要である。
 大学病院に勤務する医師については、その指導層は固定せざるをえないにせよ、中堅以下は市中病院との循環を保つ制度をつくるべきだろう。そして、指導層に対してはプレステージを与える意味で報酬と肩書きを別格にする必要もある。全国の大学病院における指導層の人数などたかが知れているし、その報酬を少々上げることで医学研究と教育の改革ができるならむしろ安いものだ。

大学院のシステムを
抜本的に見直す必要

大学病院の根幹が研究を基盤とした最先端医療にあるとするならば、その指導層は当然医学研究に対する造詣が深くなければならない。そうなるためには現在の大学院のシステムを抜本的に見直す必要がある。
現在は「医学博士」のプレステージは見る見る低落し、むしろ「専門医」の肩書きを欲する医師が増えている。つまり大学院で学ぶことの魅力もメリットも感じられなくなってきているのだ。
その元凶は、1990年代後半から始まった大学院大学化にあると言っても過言ではないだろう。これ以降、医学の進歩を担うべき基幹大学がこぞって大学院大学となり、本来の必要性をはるかに超えた学生定員を抱えることになった。数の充足を図るべく、質を犠牲にして量を水増しするという愚挙に出たのだ。結果的に起こったことは、多くが大学院に入学するものの、きちんとした研究や教育が行われないために、評価もいい加減な“なんちゃんって医学博士”の大量生産である。学位はプレステージではなくなり、持っていてもなんのメリットもない称号になり下がった。そもそも、博士号を持つ人間を倍増させて社会にどういうメリットがあるのか、理解に苦しむのは私だけではあるまい。
今後は大学院の質の再建をめざすべきである。現在の大学院の実情は誰が見ても以前よりも圧倒的に悪化している。少なくとも医学系大学院に対しては、定員充足率に関して文部科学省は寛容であるべきだ。量よりも質の充実こそが現在の喫緊の課題であるからである。

博士号か、専門医か
2つの道を明確に示す

大学院で真の研究を学ぶことを目的とする者だけが入学し、厳格な審査を経て学位を授与する少数精鋭主義にあらためるべきである。このような資格を有する者が大学病院における指導層を形成するようになれば、必然的に研究志向の強い若手医師は、大学院に入って基礎研究の門を叩くことにメリットを感じるようになるだろう。
このようなサイクルが定着すれば、将来の医学の発展に貢献しようと志す人たちは、その人生の少なくとも4年間は腰を落ち着けて研究するという経験を積めるだろうし、それは基礎研究部門を活性化し、さらには臨床研究部門の成果を増し、真のtranslational medicineへの貢献となり、最終的には国民の利益となる。
すべての医師が平等でひとつの道を歩む時代はすでに去った。これからは将来の投資のために医学を志す医師と、現在の医療技術を駆使して患者の治療にあたる医師が、それぞれの志向と適性に応じてその役割を分担すべきであり、当然大学病院と市中病院もその目的と役割を明確に分離すべきであると思う。つまり大学院に入学して博士号を取ることをめざす道と、市中病院において専門医をめざす道という2つの道の存在を医学生に明確に示し、選択させることを促す方策が何より必要である。繰り返すが、全員が平等でなくてはならないという時代ではもはやないのだ。
今、もっとも大切なのは、医学部が存亡の危機に立たされていて、早急な対応が必要であることをひとりでも多くの方に認識していただくことである。すべてが手遅れにならないうちに、適切な制度の改革がなされることを切に希望したい。